AngelBeats! RespectSS
human system
prologue
清々しい朝の目覚めを迎える為に、前日は心の落ち着くアロマを焚き、毎日同じ時間に就寝する。
暖かいベッドに潜り込むために、憂いを残さず、今日やるべきことを全て済ましておく。
勉強に支障を来さないように、夕食は控えめに。投薬の時間は厳守。
過度の運動は避けること。しかし、散歩程度の運動は適度に行うこと。
全て、かかりつけの医師と母に教わった決まりごとだ。
言われたとおりに毎日を過ごしているおかげか、最近はひどい発作も起こらなくなった。
立華奏のささやかな幸福は、このように構築されている。
「行ってきます」
奏が新品当然の革靴に足を通すとき、背後にはいつも母がいる。
忘れ物―特に薬―はないか、体調は万全か、携帯は持ったか、本当に送り迎えは必要ないか、と。一日がかりの仕事は負担がかかり過ぎないのか?などなど。
大丈夫、心配しないで――。奏はいつもこう返すが、母は「それならいいのだけど」と、煮え切らない笑顔を返すだけだ。
母なりの精一杯の笑顔。きっと、母の心労は「その日」が来るまで晴れることはないだろう。
奏の心臓適格者が現れて移植手術が成功する日か、もしくは――。
奏は心の靄を晴らすかのように、勢い良く立ち上がった。大丈夫、立ちくらみもない。今日の自分は「本当に大丈夫」らしい。
玄関扉を開けると、日本の夏特有のむわっとした空気が奏を包みこむ。しかし、それを別段不快だと思ったことは奏にはない。
それは、病室に篭っているだけでは味わえない、外の世界と繋がる感覚だから。
季節は夏であった。
1.
夏休みのこの時期、制服姿で道をゆく者はほとんどいない。仮に今日が登校日であったとしても、今はまだ朝の5時を回ったところだ。尚更人気が見当たらないのは当然と言える。
それなのに、奏がぴっちりとアイロンのかかったシャツを着用して出かけるのには理由がある。
彼女は、花壇の水やり係だったからだ。
高校に上がってもなお、こういうものが係の仕事として存在していることは稀なのかもしれない。
この学校には美化委員会なるものが存在しているらしいが、率先して活動を行う委員はまばらだ。その上、35度を越す酷暑がここ1週間ほど続いているのだから、さもありなん、というところだ。
ホームルームの議題にすら挙がらなかった水やり係を奏は提案し、志願した。奏の事情を知る担任は即座に却下した。クラスメイトにも止められた。中には謂れのない中傷を浴びせる者もいた。奏の出席日数は、進級できるかどうかの瀬戸際にあったからだ。だから、点数稼ぎをしたいのだろう、と。
その善意からの提案も嘲るような中傷も、奏の一言で収まった。
「少しでも多く、学校での思い出を作りたいから」
かくして、見るに見かねた担任が当番制を提案し、奏は週2日の水やり係に任命された。この一件でますます奏の教室での居場所が少なくなったのは言うまでもないことだ。
奏の自宅から学校までの距離は、幸いにも歩いて通うことが出来る程度の距離であった。これもおそらくは、担任がしぶしぶ了承した理由の一つであろう。
また、日除けのための帽子の着用を許されたことは奏にとっては僥倖であった。お気に入りの麦わら帽子は、今年に入ってまだ着用していなかった。
その麦わら帽子を指でくいっと持ち上げると、病室からでは壁紙のように素っ気なく映った青空が、奏を祝福するかのように雲ひとつ無い姿を披露して見せてくれた。
祝福はしていたのかもしれないが、一方で太陽は燃え盛るのが仕事である。奏の白く肌理細やかな首筋に玉のような汗が流れ落ちる。少し日陰に入って、小休止したほうがいいかもしれない。
少し遠回りになるが、奏はアーケード街を目指して歩くことにした。あそこには屋根があるし、この時間ならばまだ営業時間外だし、そうそう邪魔になることもないだろう。
奏はとある店のシャッターの前で座り込んだ。はぁ、と小さく息を吐く。小康状態に入っていると言っても、運動不足は否めなかった。
青空の消えた天井を何気なく仰ぎ見ると、視界が微かに陰っていた。
「あのさあ、そこ、あたしの親の店なんだけど」
影の正体は、奏より少し年上の、大学生風の女性であった。特に派手な装飾を施しているわけではないが、目付きが尋常ではない。顔をぐっと近づけられると、アルコールのきつい匂いが奏の鼻孔を刺激した。
「すみません、失礼しました」
奏は一礼してその場を去ろうとしたが、右手をがっしと掴まれてしまった。
「別にさあ、一日ぐらいここにいてもいいんだよ?ただほら、誠意ってのを見せて欲しいわけよ」
続けざま、女性は左手に握られた缶をからからと振って、
「どーせ、うちのオヤジは今日も店空けるつもりはねえんだから、ダンボールでも拾ってきて寝てりゃいい。1ケース分でいいわ。鎮静剤が必要なの。それさえあれば、私の病気も治るのよ。お金はちゃんと返すから、ね?」
それを聴いて、奏は弱りきった心臓が跳ねるのを感じた。
単なる酔っぱらいの戯言だ。多くの人はそう捉える。この場合、大声で助けを呼ぶか、脱兎の如く逃げるのが正解だろう。
しかし、奏はこう答えた。それは恐らく最悪の返答だった。
「1ケースっておいくらですか」
ついには財布をカバンから取り出した奏を見たとき、女性の理性は完全に吹っ飛んでいた。
「ナメくさりやがってっ!この――」
セリフは最後まで発することはできなかった。往年のヒーローが放つ、ほぼ地面に対し平行線を描くような芸術的な飛び蹴りが女性の顔面にヒットしていたからだ。
女性は二転三転と転がり、ついには反対側の店舗に突っ込んでしまった。オーバーキル。
「私の目の前で理不尽を行なおうなんて、宇宙開闢以来、二組目の大馬鹿者だわ」
蹴りを放ったのは、奏と同程度の年齢に見える少女だった。確かに奏よりは健康そうであるが、それにしたって無茶苦茶な暴力だった。
「まさか、あのひと――」
「あの位で人は死なないわよ。せいぜい全治2ヶ月程度じゃない?」
さらりと恐ろしいことを言った気がする。
「あ、ありがとうございます」
奏が頭を下げようとしたのを、飛び蹴りの少女は片手で制した。
「私はあなたを助けたつもりはない。カツアゲは確かにムカつくけど、それ以上にあなたをぶん殴りたい」
奏の身体がびくん、と跳ねる。奏のピンチはまだ続くようだった。
「なぜ、お金を払おうとしたの?それで許されると思った?それであの女が救われるとでも思った?」
奏は小首を傾げ、こう答えた。
「お薬が無いと治らないって言うから」
――少女は瞬きもせず、口を半開きにしてしばし呆けた後、髪をむしるようにくしゃくしゃと辺り散らかした。
「ほ、本当にいるんだ、天然ってやつが!一生出会うはずがないであろう絶滅危惧種に私は出会ってしまった!どーすんのこれ!?どーしたらいいの!?こんなかわいい小動物、実際にいたなんて!」
奏は首を傾げるしか無かった。
ひたすらひとりで暴れきった後、少女は深呼吸してやっと落ち着きを取り戻したようだった。
「いい?ちゃあんと文脈を読みなさいよ。あいつの言ってた「鎮静剤」はお酒のこと。1ケース分の鎮静剤ってどんだけなのよって話よ。あと、あの店はがらんどうだから」
よく見ると、シャッターには「テナント募集」の張り紙があった。
「あー」
奏はぽん、と手を叩いた。
「それから、こんな早い時間にこんなところでうろついちゃだめよ。制服もダメ。そういうのが好きなのも居るんだから。オールでのんだくれたオヤジどもがそこらに転がっててもむやみに近づいちゃダメよ」
ふむふむ、と奏はメモを取り始めた。
「つーか、そもそも、酔っぱらいの戯言に付き合うのがおかしいのよ。もっとしゃんとしなさい」
ビッ、と背を伸ばす奏。結果、幼さが強調されただけであった。
「……あんた、相当の世間知らずね。今回はたまたま私のような善良な市民がいたからいいけど、次は知らないからね」
――そう言えば彼女は、いつから現場に居合わせていたのだろう。
「いろいろ、ありがとう」
奏の感謝の言葉を聞いた少女は、言うべきことは言い尽くしたとばかり、奏に背を向けて歩き出した。が、その歩みを止めて、一言だけこう言い残した。
「今みたいにね、理不尽は前触れ無く襲いかかってくるものよ。そして、理不尽には徹底的に抗いなさい。そうしなければ――」
「……そうしなければ?」
相も変わらず幼げな表情で返す奏に、少女は、
「そいつみたいにおいしいお酒が飲めなくなる、かな?」
と、苦笑を返して去って行った。
2.
1kmも過ぎるかという時点で、奏は猛烈な乾きを感じていた。水やり係の件を医師に相談し、それなりに下準備はしてきたつもりだったが、しょせんは付け焼刃だったということだ。
奏は川沿いまでたどり着いていた。学校まではすぐそこだが、ここは無理をせず、ここは休憩を入れるべきだろう。
近くの河川敷まで降りると、何かが空気を裂くような音が断続的に聞こえてきた。人影のようなものが見えるが、靄がかかってはっきりしない。
しばらく観察していると、人影が「あっ」という声を発し、直後、奏の足元に棒のようなものが転がってきた。
拾いあげると、それはテレビで見たことがある代物だとわかった。手に取るのははじめてだったが。
「おーい、大丈夫かー、怪我は無いかー!?」
バットを振っていた張本人がこちらに向かってくる。相当慌てた様子だった。
奏はこれに「うん、大丈夫、です」と返し、手に持ったバットを差し出した。
しかし、少年―近づいてきてくれて、やっと少年だと気付くことが出来た―はこれを受け取る余裕さえ無いようで、
「ほんとに!?どこにも当たってない?なんなら救急車呼ぶけど!」
と、相当なパニックに陥っている様子だった。
どうすれば彼の混乱を収めることができるかと思案した奏は、
「ほら、だい、じょう、ぶ!」
と、不慣れなバットをぶんぶんと振り回してみせた。バットを振っている、というか、バットに振り回されている、というか。
「あー、良かったあ。やっぱ今日みたいな日にゃ自重しなきゃな」
そう言うユニフォーム姿の彼は全身が泥だらけで、あちこちにあざをつけていた。
「怖い思いさせちゃったなあ、何かお詫びしないと」
「いや、お詫びなんて」と一度断りはしたが、バットが転がってきたこと自体は本当だし、それで彼の気が済むならと、ジュースを一本奢ってと要求した。
水筒を持参していたことは黙っておこう。
彼は一瞬ぽかんとしたが、それでいいなら、と猛ダッシュで自販機の元に駆けていってしまった。賑やかな人だなあ。
少年が河川敷に戻ると、シートが敷かれ、小柄な少女がぽつねんと座っているので、少年は少々面食らってしまった。
どうも荷物が多いなと思ってはいたが、まさかこの真夏日に学生服でピクニックもあるまい。しかも一人で。
「おまたせ」
「じゃあ、遠慮無くいただきます」
「あの、このシートは何?」
「午後辺りから台風が本州に接近してくるらしいから、学校の菜園用に」
「なるほど……」
そこで会話が途切れた。靄は晴れつつあった。
風に飛ばされないように、四隅を靴で抑えている。これでお弁当があって、少年が泥まみれのユニフォームでさえなければ、きっとこれはデートに間違わられる。
「バットって」
その静寂を破ったのは奏のほうだった。
「なに?」
「ボールを打つためにあるんでしょう?」
少年の肩ががくりと落ちる。ボール以外の何かを打ったら、高い確率で牢屋行きである。いや、先程バットを当てそうになった自分への嫌味か?
「なのに、ボール投げる人、居ないのね」
ああ、なるほど。スポーツをやらない人(奏がそうだと決め付けるのは早計だが)にはそう写ることもあるのか、素振りというものは。
「私、ボール投げるから、打って」
彼はまたもやずっこけた。
「ボール打たないと練習にならないでしょう?」
「なるよ!めちゃくちゃなる!それにここで君にボール投げさせたら今までの俺は『ボール投げてくれる相方も居ないのかー、なんて不憫な子!』みたいになるから!」
「……そうなの?」
「そうなの!」
彼は一息つき、子供をあやすようなテンションで説明を始めた。
「一振り一振り、研究しながら振っているんだよ。何千、何万もバットを振って、それでもフォームが崩れないように、より最適なフォームを完成させるために努力と研究を重ねていくんだ」
すっくと腰を上げ、
「さて、俺は練習に戻るから。靄も晴れたし、もう飛ばしたりすることはないと思うけど、一応、もう少し離れててな。ジュース飲み終わるまでゆっくりしていきなよ」
学校の授業などあるわけもないし、かなり余裕を持って家を出たので、少しくらい遅れても支障はないだろう。
陽が登り始め頂点に達するころに水をやると、それは瞬時に熱湯に変わってしまう。今日はそれも考慮してあえて早めに出たので、まだ少し時間がある。
スカートが皺にならないようにシートに座りなおして彼の観察を始めた。
よく見ると、彼のフォームはとても美しかった。
奏は野球を知らないけれども、一振り一振りに乱れがなく、ただ一心不乱に振り続けていた。
東から陽光が差し込み始め、彼の汗が宝石のように輝いている。もう少し見ていたいが、そろそろ行かないと花達が萎れてしまう。
何千何万の素振りを続けられるのは何故なのか、奏は少年に尋ねた。
「本当に叶えたい夢があるんなら、どんな努力だって惜しまねえもんだ」
夢、努力。
今の奏には重い言葉だった。
「そのうち、あんたにも見つかるといいな」
少年は形容しがたい、複雑な笑みを浮かべて、練習を再開した。
3.
紆余曲折あって、奏が学校に着いたのは予定より30分も後のことだった。
担任の教師も見当たらないし、元々、待ち合わせの時間の30分前にあわせて出かけたのだから誰にも咎められることはなかった。
いや、正確には2、3人ほど担当者がいたはずだが、揃ってサボタージュを謀ったようだ。
しかし、咎める気はさほど無い。連日の酷暑は相当体に堪えるだろうし。
それに、これだけ広い花壇や草木を独り占めできるならそれも悪くない。強がりではなく、奏は純粋にそう感じていた。
立華奏は土いじりが好きだ。みんな嫌がるけど、ミミズだってかわいいと思うし、花や野菜の種類に合わせて土を選ぶ作業も心を踊らせる。
ただ、暑さにだけは敵いそうにない。程良く休み、凍らせたスポーツドリンクをちゅーちゅーと吸う。
「はあー」
奏は土の上に寝転んだ。ジャージに着替えたため、汚れを気にせずに済む。髪も結いだ。あまり「かわいい」格好ではないが、これはこれで奏は気に入っている。
誰かに貢献している気になれるから。汚れたジャージがそれを証明している。
とりたての野菜は格別に美味しいし、それほどの量ではないが、学校の近所の家庭にも分け与えている。
ただ、それが本当に「貢献」になっているかどうかは、奏には判断がつかない。
野菜を受け取った人達の笑顔は本心からのものなのか?
自分の行動に酔っているだけではないのか。
自分は何か欠如しているのではないだろうか。そんな不安が、奏の脳裏を支配する。
しかしそれでも、今の奏には仕事がある。それだけでも満たされているとは言えまいか。
そのように、こまめに休憩しつつ土と戯れていたら、いつの間にか正午を過ぎていた。学園中の花木の世話をするのはさすがにひとりでは時間がかかりすぎる。
ひとりの時間は好きだ。ひとつのことに没頭して、嫌なことをすべて忘れさせてくれるから。
一方で、人と他愛もない会話をするのも好きだ。土いじりの仲間ができたら、一日中話し込む自信がある。
どちらにせよ、奏に残された時間はあまりに少なすぎた。今行っているわがままも、比喩ではなく、本当に寿命を削る要因になっているかもしれないし、家族や周りの人達に迷惑をかけ続けている。
それでもやりたいことがこれだった。
奏は何かを残していきたかった。自分の命の代わりに植物に命を注ぐ選択をしたのはその為だ。そして、それを誰かが受け継いでくれるなら、それこそが本望だと言えるだろう。
ただ、その出会いは生命がある時がいいな、とも思う。
ひとりが好き、というのは本音だ。でも、誰かと繋がっていたいのも偽りのない願い。
例えば、この弱りきった鼓動をリズミカルに奏でさせる事のできる、心踊る出会いを、あわよくば。
4.
道具の片付け、野菜の選別、その他もろもろの雑用をこなしていたら、時刻はすっかり夕刻にずれ込んでいた。この次は責任感の強い人と組んで作業を行うこととしよう。
エコバックに詰め込んだ野菜を抱えて帰路を進む途中―その日担当した生徒は常識の範囲内の野菜を持って帰っても良いと担当の教師に許可をもらっている―、駅前から何かしらの演奏が奏の耳に飛び込んできた。ストリートライブというやつだ。
知識では知っていたが、目にするのも耳にするのも初めてだった。
奏は知らず知らずのうちにその音のする方に、吸い込まれるように近寄っていた。演者は女の子だった。
演奏は荒削りだ。年季の入ったアコースティックギターは少女にぴったりハマっているように感じる。
穴の開いたジーンズに、そっけない黒のTシャツという素朴な格好。あとはギターケースが転がっているだけだ。
その演奏を聴いていく者は居ない。駅前でのストリートライブはどこの駅でもよく見かけたものだが、最近は取り締まりの厳しい地域もあり、ここもその一角だった。
演奏を聴いていくものは居ないが、好奇や侮蔑の目で彼女を嘲る者は多い。
「何か用?」
少し尖った声が奏に飛んでくる。気付かぬうちに、奏は少女の真正面まで接近していた。
「あ、いや、えーと」
答えに窮し、奏はようやっと言うべきことを探り当てた。
「綺麗な歌だなあ、って」
瞬きほどの沈黙のあと、
「ふうん」
と、少女は素っ気なく答えた。そして間断無く、
「あんたのさ、その両脇に抱えた野菜。あんたがこさえたもの?」
「……はい」
少女の声色に多少の怒気を感じ、奏は萎縮しつつも肯定した。
「それ、食べた後に「綺麗なお野菜ですね」って言われて、あんたは嬉しい?」
今度は奏が怒るターンであった。
「野菜は形じゃありません!……あ」
奏は気付いた。彼女の歌を表面だけで捉え、何を訴えたかったのかまで知ろうとはしなかったのだ。
「野菜も音楽も、みてくれは重要だよ。でも、外っつらだけじゃない、胃や心を震わせる何かを作るのが私らの役目。これは私の持論」
「……ごめんなさい、私……」
「いいよ、それで。別にあんたのために歌ってたわけじゃないから。……で、用はそれだけ?」
つっけんどんにそう返すと、彼女は花壇の端に座り、奏など最初から居なかったかのようにギターをいじり始めた。
――そう言えば、私は何故彼女の側に寄ってきたのだろうか。
真正面に立って、「すみません、なんでもないです」なんて失礼極まりないし、今更歌の感想を述べてもまともに受け取ってはくれないだろう。
なら、ギターケースに小銭に放れば良いのか?
何が正解なのか。学校で花に水をやり、野菜を作る。これだって単なる自己満足なのかもしれない。本当は何をすべきだったのだろうか。
思考はあらぬ方向へと巡り始めた。そもそも何の話だっけ?
視線を上下左右に走らせ、色々と思案していると、不意に少女と目が合ってしまった。彼女は、いつからかは解らないが、挙動不審な奏の様子を観察していたようだ。
「あんた、何に迷ってるの?子猫のように震えてたって、誰も救ってくれないよ」
「私、子猫じゃない」
精一杯の強がりだった。しかし、心当たりがないわけではなく、思わず声が裏返ってしまった。
「ごめん、ごめん。じゃあお詫びに一曲聴いてくれる?あんたにはまだ早い歌だけど」
奏が答えを発するよりも早く、彼女はギターを弾き始めた。
女性から発せられているとは思えないほどのしゃがれた、しかし繊細な歌声で始まったその歌は、凍えた心を抱かえた男女が当て所なく街をさ迷い、たっとひとりの自分の分身と身を寄せ合う、悲しい歌だった。
でも、身を寄せ合える誰かがいるということ。その一点だけは素直に羨ましく思った。
「あんた、もう帰んな」
身を寄せ合う誰かが、奏にはいただろうか。
そう考えてしまうと、奏は歌詞通りの凍えを感じはじめていた。まるで心臓から全身に浸透していくような、そんな感覚。
「悪い、不安がらせるつもりはなかったんだ。大丈夫、その野菜を食べてくれる家族がいるんだろ。心配することなんて何も無い」
少女の声色には、先ほどと打って変わって優しさがにじみ出ていた。しかしその笑顔には、整った顔つきには似つかわしくない疲れもまた、刻まれていた。
5.
手がしびれてきた。さすがに収穫しすぎたか。とはいえ、この橋を渡りきれば自宅は目と鼻の先だ。もうひとがんばり。
「はあ、いやしかし」
体力的にも精神的にも、限界が近かった。
――今日は見知らぬ人によく声を掛けられる日だった。みなクセがあっておかしなひとばかりだったけど、どこか暖かい人達だった。
「また、会えるかな」
その人達の顔を思い出そうとしたとき、奏はある共通点に気が付いた。
――私、人を困らせてばっかりで、誰の笑顔も見ていない。
今までもそうだった。彼女の容態を慮る家族やかかりつけのお医者さん、クラスメイト、みながみな、奏に本当の笑顔を見せたことがあっただろうか。
身体が弱いから。言いたいことを言えない性分だから。みな、まるで腫れ物に触るように接しているのではないか?
奏は全身に悪寒が走るような感覚に陥り、その場にしゃがみ込んでしまった。
――私は、誰にも愛されていないの?
目線が自ずと下に向けられる。そう言えば台風が近づいているのではなかったか。心なしか、川が荒れ始めているような気がする。
――このまま、ここに留まっていれば――
その時、奏は何かを聞いた気がした。
犬が吠えている。恐らく子犬だ。台風の接近で怯えているのかもしれない。声は断続的に聞こえてくる。――こちらに近寄ってきている?
――まさか。
奏は河川敷に降りた。ダンボールが上流から流れてくるのが目に入った。泣き声は収まらない。ダンボールを凝視する。手足をばたつかせる犬の姿が見えた。
不幸中の幸いか、ダンボールは岩に引っかかっている。あの辺りはまだ浅い。今なら泳がずとも助けられる!
奏は意を決して、手荷物を放り、川に足を踏み入れる。そんなに遠い距離ではない。腰辺りまで水が迫ってくる。濡れた服が重い。それでも、歩みを進めるのをやめない。
その時であった。
「ああっ、子猫が川に流されていくぅっ!」
とっさに声のする方へ眼をやると、長い黒髪の鮮やかな少女が何の躊躇もなく川に飛び込んでいってしまった。
――刹那、気が緩んでしまった奏は、慌てて少女の飛び込んだ方向に目をやった。浮かんでくる様子がない。
奏は戸惑うしか出来ない。いや、何より、今自分がこうしていることさえ危ういということに、奏はやっと気付いた。
奏は精一杯足掻いた。しかし、彼女の体力で出来る事はあまりにも少ない。ダンボールにも、姿を消した彼女にも――手は届かなかった。
そして、奏自身の意識も遠のいていく。
白濁した意識の中で、奏は自問する。
力のないものは理不尽に抗えるのだろうか。
願いのないものは何のために努力するのだろうか。
迷い猫はいつまで抱きしめてくれる誰かを待てばいいのだろうか。
誰も、救えなかった。
理不尽に抗う力がなかったから?
力を蓄えるための努力を怠ってきたから?
ただ、救ってくれる誰かがやってくるのを待っていただけだったから?
そのアンサーを導き出す時間は、まだもう少し残っているようだった。
結論からいうと。
飛び込んだ少女はあっさりと川岸に自力で這い上がってきていた。
右腕にダンボールを、背中に奏をしっかと抱えて。
ちなみに、ダンボールの中にいたのは、規則的に手足をばたつかせるおもちゃの子犬であった。
「あ、ありがとうございます」
奏は素直に感謝した。忍者装飾のような何かを着込んだ浮世離れしたコスプレ少女であっても、恩人は恩人だ。
感謝への返答は、冷ややかなものだった。
「――浅はかなり」
まさにその通りだったので、言い返せない。
「さらば」
くのいち的な何かである少女は、軽やかに橋の上まで電光石火で駆けていき、橋の真ん中で足を止めた。
「しかし、その心意気は認めよう。受け取れ。――暖まるぞ」
奏は夕陽に照らされ黄金色に輝くそれを、包み込むように手に収めた。そこにはこう書かれていた。
『本日のおすすめ品・半額サービス券』
――食堂の割引券だった。
6.
ずぶ濡れのまま、奏は陽の落ち始めた川沿いを歩いている。
この食堂の場所はかろうじて覚えている。今のように小康状態であった頃、恐らく小学中学年程度の頃に一度家族で行った覚えがある。
「本日のおすすめ品」が何なのかは記されていないが、父から小皿で分けてもらったしょうゆラーメンが美味しかった記憶がある。
今の状態の奏にはこれ以上無いご馳走である。
道をとぼとぼと歩きながら、奏は考え込んでいた。
子犬を救えなかった――結果的に「溺れた子犬は居なかったんだ」だったのだが――自分の無力さと、救えると思ってしまった自分の傲慢さに苛立ちを感じていたのだ。
今日、出会った人達の言葉が頭を駆け巡る。
何も持たず、いつ尽きるか解らない心臓を抱え、ただ、ぬくもりだけを求めている。
とにかく今は――、ラーメンが食べたい。
濡れ鼠となった奏が食堂に現れたとき、店員はさすがに驚いた様子だった。
台風が近いとはいえ、外にはまだ晴れ間が覗いている。近くの川で水浴びでもしなければこんな状態になるわけがなく、そして半分はその通りであった。
それはともかくとして、とにかく暖かい何かが欲しい。奏は「本日のおすすめ品・半額サービス券」を差し出した。
――が、店員は複雑な表情で、「これはランチ限定だから……」と返すに留まった。
奈落の底に落とされたような失望感。確認しなかった自分にも非があるが、くれる方もあれだけカッコよく渡しておいてそれはないだろう。
ずぶ濡れのまま途方に暮れていると、さすがに身につまされたのか、ひとつ提案を持ちかけられた。
それは「新入りの料理を試食して欲しい、その代わりお代はとらない」という条件だった。渡りに船。ただ、冷やし中華じゃなければいいです、とは主張した。
とにかく疲れたので、カウンター席に座ろうとすると、店長の奥さんらしき人が厨房の奥から顔を出し、店長を怒鳴りだした。
ずぶ濡れの女の子を放っておくなんて、なんで男どもは気が利かないのか、と。
おばさんは奏の腕を無理やりひっつかんで、店の奥まで連れていかれた。
シャワーを浴びさせ、少し大きめのパジャマを着せられた後、居間に通された奏は大いに驚いた。
八畳ほどの部屋に、あきらかに袖を通していないシャツやワンピース、ボトムやスカート、学校の制服など、あらゆる服がぎっちり並べられていた。
よく見たら、今時流行りのブランドものや、キャラクターが印刷された幼児用のジャージすら陳列されていた。
それだけではなく、野球のユニフォームや道具一式、サッカーボールにスパイク、ふりふりの飾りがついたアイドル風の衣装まで。
あまりの様相にたじろいたが、おばさんの説明で得心した。
おばさんの孫は幼少時に交通事故に遭い、今現在も寝たきりのままらしい。
しかし、お孫さんはいまでもずっと回復することを諦めておらず、あらゆる夢をベッドの上で語り続けているのだそうだ。
孫の回復を信じ、誕生日やクリスマスなどの記念日のたびにこうして買い足して行ったらこの数になってしまったらしい。
制服が乾くまで、と勧められた、タグの付いたワンピースに袖を通すのは憚るところであったが、自分と入院中のお孫さんが同年齢だと聞いて、ここは着ておくべきだと判断し、根負けした形でお借りすることにした。
それを見て身体をを丸めて崩れ落ちるおばさんに、奏は背中をさすってあげることしか出来なかった。
しばらくすると、奥から店長が奏を呼ぶ声が聴こえた。どうやら料理が完成していたらしい。
が、カウンター席に座った奏は複雑な表情を隠さずには居られなかった。
麻婆豆腐。
シャワーを浴びて多少は体温も回復したが、出来れば心身ともに暖まる何かを用意して欲しかった。ラーメンとか。
――いや、まあ、ここまで親切にしてもらって、その言い分はあんまりだ。
奏は「いただきます」と軽く頭を下げ、れんげを手にした。
何やら――赤すぎやしないか。
逡巡していると、店長や奥さん、下準備中で比較的手の開いている店員みんなが何故か奏を凝視しているのに気づき、えいや、とれんげを小さな口に放り込んだ。
まず第一に、舌を攻撃した感覚は「辛い」。次に喉を攻撃した感覚は「辛すぎる」、そして奏の脳髄に走った感覚は「辛いにもほどがある」。結果、奏が口走った言葉はこうだった。
「殺す気か!」
人生で二度有るか無いかの怒鳴り声を奏は上げていた。
あまりの辛さに涙目になり、顔や耳、首筋まで、白く肌理細やかだった肌を赤く染め上げた。全身から汗が止まらない。これは客に出しちゃだめだ。
テーブルに突っ伏していると、店長がもう一口だけでも食べるようにと催促してきた。激しく首を振る奏だったが、そこをなんとか、と何度も頭を下げられてはたまらない。
進退極まったとばかりに、奏は麻婆豆腐を掬い、ダメージを軽減せんと、無理やり喉に流し込んだ。
するとどうだろう。
先程と辛さは変わらないが、辛味の奥に旨みが十二分に含まれているのを感じる。
激しくも優しい、暖炉の火のような温かさが、奏の冷えた体と心を癒し始めていた。
催促されずとも、奏は汗を掻きつつ、一心不乱に麻婆豆腐の皿を空にした。
気付くと、短い時間だが、放心していたようだった。
――この麻婆豆腐を作った新人さんは、きっと私を気遣って調理してくれたのだ――それが伝わってくる一皿だった。
全身ずぶ濡れの、暗い表情をした、か細い体の少女。
奏は、今の気持ちを伝えたかった。
あなたの料理は人を救える。いや、もしかしたら、あなたの存在が、誰かの光になる。
奢ってくれたお礼が言いたい、と奏が店長に掛け合ったが、他の店員曰く、その麻婆豆腐を仕上げたあとすぐ、慌ててバイトを切り上げて帰っていってしまったらしい。
麻婆豆腐を作る時間はどうやら残業分で、本来なら定時に帰る予定だったらしい。それは悪いことをしてしまった。
「この麻婆豆腐、正規のメニューになりますか?」と尋ねたら、店長は「どうだろう」と答えた。彼は医大の入試を受けるつもりのようで、その為の資金を稼ぐためにいくつものバイトを掛け持ちしているらしい。
その資金ももう少しで貯まるらしく、その後は試験勉強に集中したいのでこのバイトもそう長く続けられない旨を面接で聴かされていたらしい。
「すごい……」
奏は自然とそう漏らしていた。自分もそうありたい、料理人や医者、道はいくらでもあるだろう。
――私もそのような、触れるものを輝かせていく、そんな存在になりたい。
そう、強く感じた。
「まだ残ってるんだが、食うかい?次は有料だけどな」
「うんっ、食べる!」
あまりにも嬉しい提案に、奏は満面の笑みで返答していた。まるで肉親にせがむような子供の笑顔で。
それに気づいて、奏の頬がまた赤く染まった。
その様子を見ていた店内の人々は一斉に笑い出した。何の苦味も感じない、純粋な笑顔で。
――そうか。笑うって、そういうことだったんだ――
Epilogue
希望を胸に生れ落ちる命――。彼女はそれを見送り続けてきた。
死後の世界。それは確かにここにあった。その地で、彼女は「天使」と呼ばれている。
響き通りの、敬意の念からではない。侮蔑の念から、そう名付けられた。彼等に理不尽を与えた、神の手先として。
それでも。
理不尽な死を受け止め、笑ってここを送るために彼女はここに居続ける。
一度も会ったことのないあの人のように、ここに降りてきた人々を笑顔と共に送ってあげたい。
――その過程で、銃を向けられたとしても。
体育館からけたたましい演奏が響き始め、続いて、雄叫びとともに数人の生徒が銃を携え彼女に迫ってくる。
「ハンドソニック」
ピンと伸ばされた右腕から、光り輝く剣が顕現する。
ここでの「死」は意味を持たない。とは言え、苦痛が和らぐわけではない。例え腹を、足を撃たれても彼女は怯まない。
弾を避けつつ、時に救われるべき命に刃を向け、それでも彼女は前進する。
それでも彼女は立ち向かわなければならない。
理不尽と、願いと、抱擁の先に何が待つかを、彼等に伝えるために。