17. 夢と出会う日まで

 思考が空転している。
 目の前に広がる海のように、行ってまた帰ってくる思考。
 行った先には何もなく、行ったときと同じように手ぶらで帰還し、ただただ、その無為さに疲労感を抱く。
 
 海から少し離れた、小高い丘近くに位置する立花さんの家からゆるやかに下っていく車。運転するのは葉だ。彼は一歩も車から出ることなく、私が車に乗るまで待っていてくれた。
 私を連れに来たのは彼と太一。太一は、葉の隣で押し黙って外の景色を眺めている。重苦しい空気を持ち込んでしまった私に気を使っているわけではなく、ただ単に車に酔っている。
 飄々とした普段の彼とのギャップに、私は少し助けられている。

 人には様々な顔がある。
 
 人に接する時、私たちは神経をすり減らし、表の自分を演じる。心を許せる数少ない友人に、己の素のいくつかを見せる。音楽と対峙する時、自分も知らない顔を客の前に暴露する。
 私も、太一も、葉も、きっと少なからずいくつかの顔を持ち合わせ、使い分けている。
 漣にも、それはある。
 世間に溶け込むすべを知らなかった私を、最初に繋げてくれたのは漣だった。彼は私と世間のパイプ役を買って出てくれた。私も徐々に自分を演じる術を学び、彼無しでも人付き合いというものを円滑に行えるようになっていった。
 そうして、新たなる顔を築いていく。

 昨日のあれは、漣の新しい顔なのではないか、という仮定が私の中で浮上する。いや違う。自分を見繕うための顔ではない。逆だ。見繕った自分を剥いだ、本来の自分だったのだとしたら。
 身震いを覚える。
 だとしたら、今まで私が付き合ってきた漣は、自分を見繕った姿であったとなる。
 いや、そんな単純な話ではない……。

 やはり、堂々巡りか。

「窓、開けるぞ」
「どうぞ」
 潮の香りが車に充満する。肩にも届かない、短くなった私の髪が風に煽られる。首筋がくすぐったく、思わず首に手をやる。
「慣れない?」
 そんな私の姿がバックミラーに映ったのか、運転中の葉が私に声をかける。
「そうね。ずっと長かったから、なかなか馴染まないわ」
「手入れは楽そうでいいよなあ」
 メンバーの中で一番髪の長い人間となった太一が、男性らしからぬ発言をする。まだ気だるそうである。
「これから暑くなるから、きっとその方が楽でいい」
「そうかしら」
「葉は髪が短い子が好きなんだよ」
 太一の茶化す声は春風に乗り、車酔い気分を感じさせない軽やかさを伴って私に届く。
「そうなの?」
「そうかも」
 あっさり認めた。
 緩やかな坂を、海に向かって下っていく。花が散り、緑が目立ってきた桜の木々をくぐり、このまま海まで潜っていってしまうような錯覚を覚える。
 タイヤの接地面が少なくなったような感覚を受けた。
「この車、海に向かってるような気がするけど」
「向かってる」
 またもやあっさり。悪びれもしない。
「今年はまだ海に行ってないだろ?この時期の海は結構快適だよ」
 車は海へ下っていく。海の底へ潜るように。

「さすがにちょっと肌寒いか。座席に俺のジャケットあるだろ、羽織ってていいよ」
 塩っ辛い香りが鼻をくすぐる。今日は少し風が強いようだ。借りた皮のジャケットが風に煽られる。
 海には多少のサーファーがいるだけだ。波が高いのか、時期にしてはそれほどの数もいない。貸し切り状態といっていい。
「おお、海に来ると血が騒ぐなあ」
 よくわからないことを喚く太一。漁師か何かか。勝手に盛り上がって海に向かって走り出す。まさか飛び込むわけではあるまいが。
 その後ろを文句も言わず、大人しく付いて行く葉。静かな浜辺に、踏み荒らされた足跡と、均一な歩幅を保つ足跡が残されていく。ここでぼうっと突っ立っていてもいいが、一応付き合ってみる。
 海に初めて来た子供のように波際で潮と戯れる太一を尻目に、葉はちょこんと浜辺に座り、無表情で海を眺めている。
「座ったら」
 遅れて歩いてきた私に葉が声をかけてくる。特に反論する場面でもないので大人しく従う。
 風が強めな以外は、穏やかな午後。時間に追い立てられることもなく、私たちは海の空気を肺の底まで届くように、吸う。
「今日の海は、ずいぶん大人しい」
「そのわりにはサーファーもまばらだけど」
「この辺のサーファーは意気地なしなんだろう」
 冗談なのだろう事はわかるが、葉の口から漏れたことが信じられない。
「詳しいのね」
 付き合って軽口を叩いてみる。すると、
「ここのところ毎日見ているからね。いやでも気付く」
 という苦笑交じりの返事が返ってきた。私の目をまっすぐ見つめて。
「君も、今日はずいぶん大人しい」
 今日はおかしな日だ。
「……詳しいのね」
 間を置いて、悪態をつく程度しか出来なかった。
「君も気付いているはずだよ。毎日見ていれば、気付く」
 何に、と問い返す前に、びしょ濡れの太一が闖入してくる。
「いやあ、参った。パンツぬれぬれ」
 発する言葉を、一瞬忘れた。本当に飛び込んだのか。
「うわ、なにその得体の知れないものを見る目。意外と波高くてさあ。足とられちゃったんだよ」
 よく見れば、髪は濡れていない。さすがにそこまで馬鹿ではないらしい。この季節にずぶ濡れな時点で十分馬鹿だが。
「あーきもちわりい。ズボン脱いでいい?」
 無言で拒絶。
「ノリわりぃの」
 さっきまで車の中でうめいていた人間とは思えない。ああ疲れた、と息を吐き、私の隣りにどっかと腰をおろした。
「こいつさ、初恋の子がショートだったんだよ」
 いきなり何の話かと思ったが、どうやら車中での会話の続きらしい。
「付き合う子はショートが多いな。今でも未練たらたららしい」
 この間ふられた子も、と太一がぺらぺらと葉の女性遍歴を語り始める。その内容は意外に過激で、葉の知られざる一面を垣間見てしまった気分だ。
 対する葉は、頼まれもせず友人の暴露話に興ずる太一に否定も肯定もせず、黙々と砂浜に何かの落書きをしている。
 葉らしからぬ幼い行動だ。いや、その容貌には似合っていると言えなくもないけど。
「何を描いているの?」
 葉に近寄って訊ねてみる。
「マイホームの図面」
 肩紐がずり落ちた。
「ポイントはここ」
 B1Fと書かれた区画に、謎の空白がある。
「録音スタジオにしたいと思ってる」
「スタジオ……」
 砂浜に広がったそれは、なかなか大胆な未来予想図だった。男の子はみんなこうなんだろうか?馬鹿げている、という感情もなくはないが、羨ましくもある。
「俺は平屋がいいな。意外と和風なんだよ俺」
 聞いていない。
「何でも手元に置きたがるんだ、葉は。だから長続きしないんだ」
「不安なんだ。見えないところにいられると」
 口元だけでぽつりとつぶやく声がなんとも寂しげだった。
「だから振られてばかりなんだよ、こいつ」
 何か過去がありそうだったが、うかつに聞くのは憚られた。
「君は」
「え?」
「君にも夢があるだろう」
 夢。
「僕らには無限の可能性がある。そうは思わないか」
「精神論的な話かしら」
「いや、れっきとした事実だよ。僕らはまだまだ若い。……ただ」
「ただ?」
「一分一秒、可能性は確実に削られていく、何もしないままではね。時とともに、体力も気力も衰えていく。僕はそれが怖い」
「……つまり、私を甘やかす時間はもう、ない?」
「そういうこととはちょっと違うんだよ」
 太一が足に張り付いたジーパンを気にしながら、場違いに明るい声で告げた。
「時間はあげるよ、無限とは行かないけどね。ただ、頭の中でいくら現状をシミュレートしても、袋小路から脱出できない。詩を書くというのはさ、机に向かえってことじゃない。外へ向かうんだ。外へ向けるんだよ、意識をね」
 そして私に背を向け、
「例えば海を見る。海を感じる。海で働く人に思いを馳せる。魚やタコ、海草にだっていい。そうやって、今あるものに心を移すんだ」
 何事も経験しないと、成長は見込めない。肌で感じた分だけ糧は増える。それはわかる。でも、私が今知りたいのは……。
「だから、漣に会うんだ」
 体が膠着する。今聴きたかった、聴きたくもなかった名前。
「漣に会って、漣の見た風景を見て来るんだ。漣の得た糧を奪い取ってしまえ」
「私は漣じゃない……。きっと、漣と同じ物は見えない」
「それでいいんだ。それを確認しに行くんだよ」
 合点が行かなかった。
 ただこれだけは分かる。
 彼に立ち向かわねば前には進めない。ただ、それだけは。


 そして私は手を伸ばす。明日にこそ光があると信じて。
「漣」